備忘録

思いついたことを書いたり、書かなかったり

花火

 家から出るとすぐに花火が見える。

 

 轟音をまき散らしているのに打ちあがった姿は美しい。うるさいのにキレイなんて、なんとも矛盾を孕んでいそう。

 

 ちなみに仕事が終わっていないので花火は見られない。すぐそこで盛り上がっているのに近づけないって、なんだか物悲しい感じがするなあ。

 

 打ち上がるたびに部屋が揺れる。タバコを吸うために換気扇を回すと、ほんのり火薬の匂いが漂う。隔絶されたところから間接的に味わう花火も悪くないかもしれない。

 

 花火は個人的に人間があまりいないところで静かに眺めたい。

眠れない時は

 眠れない時は素直に寝ない。昔、導眠剤を使ったら副作用で日常生活がまともに送れないなと思って以来、薬にも頼れないので諦めることにしている。

 

 覚醒状態を保つために使っていたカフェインは中毒症状がひどく、ここ1年以上はほとんど摂取していない。以前は毎日のように摂取していたが、人間の体はうまくできていないようだ。

 

 ただ、あれだけ毎日摂取していたのに案外すっぱりとやめられる部分については非常に感謝したい。

 

 だいたい2日ほどロクに眠れない日が続くと、イイ感じに研ぎ澄まされたような感覚に陥って――これを言語化するのは非常に難しい――ハイな状態になる。この時はやろうとしていることが一瞬で終わったり、発想をする際にも役立ったりする。

 

 恐らく疲労状態が続き平常時の雑念がなく、思考が邪魔されない=思考回数が少なくなっていることが原因なのかもしれない。そのぶん後で見返すとひどいこともあるが、だらだらと考え続けるよりはマシだ。

 

 布団に入って覚醒状態だと物思いに耽ることが多い。どんどんと思考の迷宮へと入り込んでいくが、何か得られる時もあれば何も得られない時もある。多くは後者。

 

 特に仕事で人と会う約束がある前日などはまったく眠れない。単純に人間に会いたくないのと、自身にかかるストレスを考えてしまうとどうしても寝付けなくなる。これは子どもの頃に克服しておくべきだったなと猛省している。

 

 さて、空も明るくなってきたので何かし始めなければならない。

うだつの上がらない中年に向けて

 何かに頼らないと何もできない気がして毎日を呆けて過ごしている。

 

 これは知識と予測からわかっていることだけど、何かに依存するにしても人間だけはまずい。人は離れるし変わる。そんなものに依存していても虚無感が残るだけだ。

 

 結局、何に頼るのかというと酒と煙草。この2つとはそこそこ付き合いも長く、ここ何年かで少しお高くとまり始めたけど、そこまで悪いやつらではない。現実への眼を曇らせてくれるという利点もある。

 

 いよいよ俺もうだつの上がらない中年へ向けて年齢を重ねているのだなと思うと少し悲しくなってきた。別にやりきれない訳ではない。行動しなかった自己こそが悪であり、行動したいと思わなかった自分こそが失敗なのだ。

 

 そこに対して何か思うことがあるのか。結論から言ってしまうと特にない。このまま孤独という檻に囚われながら、明るい世界を見ずに死んでいくのもひとつの人生なのではないだろうか。

 

 幼い頃によく無いものねだりをしていたような気がする。今もあんまり変わっていなくて金で買えるものは無理のない範囲で手に入れていると思う。本当に大事なものはいつまで経っても、何歳になっても手に入らないとわかっている。自分のことながらすごく滑稽だ。

 

 なすべきを成せなくなってきた自分というものに存在価値があるのか。そんなことを今日も考えた。嫌というほど時間は経過していて、いつも通り答えを出せないでいる。こんなことに答えは出ないし、それを見つけるために生きているというのも薄々わかっていながら何もできないのだ。そうずっと前からわかっている。子どもの頃から。

 

 答えの出ない思考の迷路に入り込んで深み深みへと進んで出口を探す。深層には出口なんてない。簡単なのは入り口に戻ることなのではないだろうか。導き出せていても何も実行できないのは地力が足りないのか、生まれつき欠落しているのか。

 

 今日も何もできずに1日が終わっていく。

 

 そもそも何かできると自惚れた馬鹿の思い込みで、何かを成していると勘違いしているだけかもしれないのに。

 

 一刻一刻、自戒する。

不調

 今日はすこぶる体調が悪い。

 

 慢性的な肩こりから来るものか、不摂生によるものなのかは判然としないものの、意識が覚醒状態にあるだけで怠い。

 

 少し眠ろうと思う。

 

 もしかしたら明日は体調がよくなるのかもしれない。そんな淡い希望を抱いて。

SNSに向いてなかったのかもしれないというお話

 唐突だけど最近Twitterでつぶやくことをやめた。

 理由はいくつかあって、一番大きいのは気軽になんでも書けてしまうということ。特に自分は気分が沈むことが多く、陰鬱な気持ちを発散させたり、自らを保つためだったりにTwitterを使うことが大部分を占めていたかな。

 

 こういうブログもそうだが、基本的に何かを発信することに対して“負の感情”を用いることが多々ある。前々から良くないと指摘されることもあり、自分でもよくないと考えていた矢先、吹っ切れたのでTwitterのアカウントを消すことに。

 

 いざ消そうと考えた時、10年近く続けていたのでそこそこ縁があってフォローしてくれた人もいた。向こうはどう思っているか不明だけど、個人的には人との縁は大切なものだと考えているのでアカウント削除は思いとどまる。

 

 冷静になると、Twitterと連携しているサービスもたくさんあって少し困るなとか、情報の伝達速度は良いのでたまに見るぶんにはいいかなとか、適当な理由をつけてアカウントは残すことにした。

 

 気まぐれにブログを始めたのは、自分の言葉で長文を書く機会が少なくなってきたのと思考の整理が目的だ。

 

 最初は少しすかして、ですます調で書いてみたけどなんだか取り繕っているみたいだったから口調に関してはだいぶ崩して書いてみようと思う。